視覚情報に溺れる危険性!?

昔にテレビが登場し、いまや、スマホ、タブレットなどで動画を視聴する時代です。探す苦労などなく、次の面白そうな動画は横にあります。その餌に「好奇心」はもののみごとに吸い寄せられていきます。餌を探さなくてもいいのでとっても楽ちん。どんどん、どんどん見てしまいます。

この娯楽は、「読む」という積極的で能動的な行為を、私たちから奪ってしまいました。本来、「みる」「きく」というのも能動的な「感覚」なのですが、テレビ、スマホ、タブレット、PCなどでの動画視聴は、それを極めて消極的で受身的なものに変えてしまいました。だから、楽しい(=らく)のだと思います。

加えて、ゲーム

これも楽しいのでしょう。だって、「できそう」感が散りばめられていて、実際、同じことの繰り返しなので達成感をすぐに味わえます。

そして、「できない」感を感じるレベルから、突然興味を失います。そもそも、長期間努力し、高度な技能を身につけないと、できない「ゲーム」なんて売れないと思います。ですから、興味をそそられるのも簡単、興味を失うのも簡単なのだと思います。始めるのも簡単だけど、やめる時も「ポイ」ってできます。

ゲームは、動画視聴よりは多少能動的でないとできないのですが、これは、「リアル」がまったくないところが問題だと考えています。「リアルさ」はありますが、身体感覚における「リアル」はまったくないといえそうです。

そして、「できそう」感があり、簡単に達成感を味わえます。達成感が味わえるとおもしろい。楽しい。で、ついつい。。。

それは動画視聴もテレビも同じようです。

私たちはご飯を食べながら、あるいはビール片手に横たわりながら、酷い事件や戦争のニュースをみ、誰かが騙されて穴に落ちるのを見て笑い、なにしとんねん!とぼやきながら、テレビでスポーツ観戦をしています。

やはり、そこにリアルはないようです。わたしにとってリアルなのは、横たわりながらテレビを観ていることなのだと思うのです。

こういったコンテンツの視覚情報では、すでに作られている、制作者の意図が「無意識に」染み込んだ、「イメージ」が入ってくることになります。これらは、私たちが独自にイメージを組み立てることを、初めから拒否しています。それに引き換え、「読む」という行為は能動的でなければならず、「イメージ(化)」は私がゼロから作り上げることになります。


この両者の違いはとても大きいと思われます。


実はこの話、勉強と直結すると考えています。

イメージを作り上げるということは、この場合、考えるということと同じことになります。例えば、「取り扱い説明書」のような文章を想像してください。「こんなんめんどくさい、いまどき動画でやってよ」と、考えたりする人がいるかもしれません。

文章を読んで、その内容を理解していくというのは、考えるということなくして成立しません。動画をみるというのは、考えるということのかなりの部分が省かれていて、とても楽ちんなのです。

読み解くことから遠ざかってしまうと、読解力というものが身につきにくいと思われます。当然だと思います。

必要なとき、それしかないときは、使うべきだと思います。しかし、溺れてしまうと「考えなく」なっていることに、気づかなくなってしまっています。これ、けっこう怖い話です。

入ってくる情報を吟味する力が、やはり身につきにくいのではないか。

「読解力」は国語の試験のことか、と考えるのは少し短絡的なようです。「読解力」は、私たちの生活の様々な場面で必要になってくる、とても大切な能力の一つだと考えています。

だから、学校で勉強するのでしょう。(当たり前の話なのですが。。。)


学校の勉強に限定すると、国語はもちろんですが、その他全教科、問題は文章で書かれています。そして、これからの試験は数学も英語も社会も理科も、昔よりもどんどんと読解力、判断力、記述力を試す問題になってきています。


「問題の意味がわからない」・・・


これは大変です。絶対に解けません。


2022年、とても話題になった本です。

『スマホ脳』新潮新書

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